野方商店街について

野方の歴史

野方の先史時代

 見渡すかぎりの麦畑や大根畑、島のように点在するのは雑木林や防風林に囲まれた藁ぶき農家だけ。あたりにはお寺や神社も人通無りの多い街道もなく、他所者がわざわざ訪れる理由も見当たらない。ひなびた当時としても平凡な田園風景が明治時代まで続きました。
 明治35年に、「野方村役場」が本町通りの竹内ビル(庄屋、フラワー薬局などのビル)の地から、現在の野方ウィズ(野方区民ホール)の場所に移り、以後町役場に変わっても、周囲にはよろず屋程度の商家が数軒、近くにはさる財閥の別荘ができたぐらい、相変わらずのどかな農村でした。
 いったい、その頃の誰が現代の街の喧騒を予想できたでしょうか。

(妙正寺川)
 

時代は電車に乗って!

 大正12年の関東大震災を契機に、サラリーマン階層の膨張も加わり、都市化は市内から西南部の郊外へ拡大し、いわゆる文化住宅街の進出が始まりました。
 進出の足になったのが『郊外電車』で、そのひとつ西武農業鉄道も昭和2年1月に高田馬場・東村山間の工事に着手、信じられないハイペースで同年4月には開通してしまいました。当時、中国大陸への侵攻作戦に必要な演習として、千葉県習志野の鉄道連隊が請負ったものでした。
 すでに野方町役場が木造二階建てながら荘重な洋館建築を誇っていた事を根拠として、その至近距離に『野方』駅が開業しました。畑を切り刻む工事と、駅の出現に目を見張った地元の人々は、以後、一層急激な地域の変貌に直面することになりました。

今日は電車から何人降りた?

 開業した野方駅を中心にして、野良道はそのままに、麦畑をつぶしてバタバタと建売の住居付店舗が軒を並べました。入居したのは、主に地元の二・三男坊、奉公を勤め上げた結果の独立など、いずれもその頃の盛り場で開業するだけの資力がなく、辛抱と若さだけを資本とする商人たちで、開店当初の彼らが互いに交わす朝夕の挨拶は天気と電車の乗降客数のことでした。 駅のホームに屋根をつけろと鉄道本社に押しかけたと言う古老の話にも、それなりの切実さが判ります。
 後世地域にも同様の手法で建売住宅が建ち並び、確実に乗降客や人通りが増えていくことを励みにして、彼らはなお辛抱と努力を重ねました。

(環七付近より六中方面を撮影)
 

一人前の街になるまで

 昭和初期の震災復興と都市化に続く、不況と軍靴の音を背景に、野方駅を中心に根を下ろした商店たちは激しい競合に開廃業の淘汰を繰り返していましたが、それでも後背地域の住宅を含めた街全体は発展し続け、この間の昭和10年には北原小学校が開校し、けやきの梢よりも高い鉄櫓を持つ消防署支所も設置されました。
 商店街内でも、ときわ通りに生鮮三品で構成された「朝日市場」や、今よりも街に不可欠であった銭湯ができ、その前には数件のカフェがネオンも華やかに、いわば野方の歓楽スポットとして軒を接し、酔漢の喧嘩出入りには、できたての駅前交番から巡査が駆けつけるといった情景も日常化していました。
 昭和16年には、相応する経済的な活気が認められたのか、三菱銀行の支店ができ、商店街も住宅街も所々にまだ畑や空き地を残しながら、一人前の街の密度と機能をととのえたことになります。
 折しも太平洋戦争に突入。
 一息入れる筈の商人たちも、出征や勤労奉仕・竹槍訓練に狩り出される暗鬱たる日々が待っていました。

 置けば何でも売れた戦後

 戦争が終わり、周囲は焼け野原、野方だけが無疵で残りました。(区画整理など近代的復興の妨げには なりましたがそれはともかくとして)青空市場や復興の槌音とは無縁であった野方の商人は、すぐさま閉ざしていた店の戸を開けて、置けば何でも売れる無秩序な自由経済に先駆けて対応しました。
 闇物資で有ろうと無かろうと商品を求めて、売り手も買い手も狂奔しました。 実家の畑から泥つきのままの野菜をひっこ抜いてきたり、関東一円の漁港までリヤカーを曳いて仕入にいった野方の商人のやり方は、今でいう産地直送の先取りでも有りました。
 被災しなかったことに加えて、こうした品揃えのおかげでたちまち野方は西武沿線の人々が集まる沿線随一の商店街になりました。
 電車を野方で降りて、店々を物色し、国民食堂の行列に加わってすいとんをすすり、芋を洗うが如き銭湯に入って帰宅する、これが沿線に住む独身者の当時の標準的な生活パターンでした。

(駅前通り)

 

(北原通り)

商店街の『へそ』

 終戦直後の混乱期を駆け抜けた野方は、引き続き特需景気の波にも乗り街の活気に一層の加速を付けました。
 商店街の真ん中、本町通りに残っていた麦畑と原っぱには、生鮮三品を主体にした文化マーケットと映画館の西武座が出来ました。以後この新興の本町通りが買物の順路に加わり、とりわけ、文化マーケットが街全体の中心を意味する『野方のへそ』と呼ばれるようになりました。
 夕方になると混雑で肩と肩をぶつけずには歩けない有様で、ここを縄張りにするスリも居たほどでした。
 やがて中野・新宿行きのバスも開通しました。野方で買い物をするだけのために、定期・回数券を買ったという話も、その時期には不思議なことではありませんでした。

物価が安い!買いやすい!

 野方の活気に惹かれたのは買い物客だけではなく、商人も同様でした。
 ここで商売を始めようとする人々を迎え入れるように、一店分に相当する間口を半分に仕切って二店が使う、あるいは軒下だけを貸すといった細分化・詰め込みから、狭い通りの両側に、狭い間口の店が軒を連ね、その混然とした密度には、どこかの国のバザール風景を思わせるものがありました。
 当然多業種・多店舗の状況から、回遊がきく街を一回りすれば大抵は気に入った物が手に入る便利さがありましたが、それだけに競争は激しく、価格設定は低く、 質は落とさない一見矛盾する二つの命題を解決するやり方に、店それぞれの独自の個性・こだわりを反映させました。
 しかし、いずれにしても後回しになったのは店への設備投資で、後年になっても、小綺麗な店づくりに金をかける余裕は生まれませんでした。高級指向よりも実質指向が強いことはお客様への応対にもうかがわれ、気取った上品さよりも、荒いけれど飾らぬ人情味の濃いお愛想が主流でした。
 こうして物価が安い、買いやすい定評が生まれ、街の魅力になった時代でした。

(ときわ通り)
 
(環七工事中)

そこのけ!環七が通る!

 昭和39年、東京オリンピックに合わせて環状七号道路が開通しました。
商店街は免れたものの、住宅街の中心部が分断されて、馴染み深い多くの住民が立ち退き、それは住宅環境の劣化に耐えかねた道路周辺部にも波及していきました。
 首都圏に組み込まれての地価の高騰も加わって、これまで野方の住み易さを象徴していた学生向けの下宿や戦前からの庭付きの住宅は、次々と子供が生まれるまでの新婚夫婦向けのアパートや密集した建売住宅に変わっていきました。気がつけば西武沿線の、田無・所沢をはじめとする各駅ごとに住宅街が拡大し、駅前商店街が整備され、沿線の人々にとっては野方の重要性は激減していきました。
 昭和42年、長崎屋が出店し、西武座は向き合った食品 スーパーの二階に移転し、やがて廃館。北原通りにあった野方映画館も食品スーパーに変わりました。
こうした変化は商店街の賑やかさにも微妙な翳りを与え始めました。
 今でも初めて野方に訪れた人は、賑やかな街だと言います。しかし戦後からの活気を知っている人は、この環七開通に終わり後は停滞期に入った、としています。

 どうしたら売れるのか? の時代

 停滞期に入ったのは野方だけに限らず、前後して全国どこの商店街も、それまでの順調な発展を阻まれることになりました。
 経済高度成長への移行から、商品流通の分野でも新しい波が興り、その代表例が大型店・スーパー・チェーン店などの多店舗展開で、地域の内外を問わず、その出店によって既存の商店街のすべてが大きな影響を受けることになりました
 消費者の意識にも変化が起き、あれば何でも買う戦後が過ぎ、生活のゆとりが増すにつれて、買い物の決定条件には価格・ 品質・必要度に限らず、多様な好みに合わせた選択が加わりました。
 買い物の場所もショッピングという遊び心を充足させることが重要で、その選択肢にはそれまでの商店や商店街のみならず、都心部の大商圏や大型店・スーパーも加わりました。
 多くの商店からオリジナルや手作りというこだわりの商品が駆逐され、テレビCM等で売れたブランド商品が主流の、同じ品揃えばかりだという傾向が強まり、それは長い歳月にわたって守り続けてきた個々の店の個性を薄めると共に、大型店・スーパー等と同一コースで競争せざるを得ないと言う苦境を深めていくのでした。

(武蔵野信用金庫 現サンドラッグ)

 

 

(改修前の野方駅)

時代に適した個性化を目指して 
自分の躰をもてあまし、自滅した恐竜にはならないで!!

 いま、野方商店街の生い立ちを振り返って、これまで形成されてきたその特色を要約すれば、約四百の店を抱えた商店街自体の大きさと密度、電車・バスの交通の利便さ安さ・買い易さが挙げられ、これらがこの街を支える最大の魅力でした。
 しかし、昭和40年代以降の時代の流れは、交通機関の便利さが流出の便利さにも通じることを、安さ・買い易さが大型店・スーパーの出現で一般商店だけの物ではないことを教え、これまでの魅力としての価値観を薄めてしまいました。
 商店街の大きさ・密度にしても、それ自体が広い地域から人々を集める大きな魅力であった時期を過ぎれば、むしろその規模を支えるために消費者を確保する努力を常に忘れてはならない、厳しい宿命を想起させるものです。
 いま、野方商店街は成長の岐路に立っています。
 これまで通り、街の個性に依存し個々の店の勤勉努力だけを積み重ねても、ふたたび繁栄の時代は巡り帰らないとしたら、常に時代に密着し、消費者から強い支持が得られるような、ユニークな個性を積極的に作り上げていくより途はなく、いま商店は新たな創意と工夫を、商店街全体としても、また「あいりすスタンプ」の実施と商店街振興組合への改組を手始めに、より良い環境への整備やサービス事業への拡充への意欲を燃やし、行動に踏み出しました。